私が生まれ育ったゴレ島は、「Part 1 私の故郷 セネガルの世界遺産・ゴレ島」でお話ししたように、穏やかなとても美しい島です。けれども、とても悲しい歴史を負った島でもあるのです。なぜ世界遺産に指定されたのでしょうか?
この島は、奴隷貿易時代にアフリカ各地から連れてこられた奴隷が集められる場所でした。1444年にポルトガルが船の停泊地としてこの島に上陸し、1536年に奴隷貿易の拠点として奴隷の家を建ててから4世紀に渡り、約2000万人と言われる数の奴隷がアメリカ、カリブ諸国、そして南米にと、船に乗せられゴレ島から運ばれていきました。そしてその間、この島の主もポルトガル、オランダ、イギリス、そしてフランスへと次々と変わっていった島なのです。
島には、歴代の宗主国が使った大砲や要塞の跡地が生々しく残されていて、美しい街を散策する中、その悲しい歴史を感じさせられます。私が子供の頃は、この砲台でよく遊んでいたものです。
奴隷制度は1848年に終わり、セネガルは1960年に独立しました。奴隷貿易の拠点として栄えたゴレ島は、この悲惨さを後世に伝え、その過ちを二度と繰り返さないために負の世界遺産に登録され、奴隷制度を象徴する場所となったのです。
奴隷の家
ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの歴史において非常に重要な場所であるゴレ島の「奴隷の家」は今も残されていて、南アのネルソン・マンデラ大統領や米オバマ大統領、仏ミッテラン大統領、法王ヨハネ・パウロ2世など、歴代の各国首脳・要人が訪れます。
「奴隷の家」は、奴隷貿易時代にアフリカ各地から集められてきた奴隷たちが、船に積み込まれるために待機・選別されていた場所です。性別や体格、体力の差によって各部屋に分けられ、体の弱い者は海に投げ捨てられました。家族がバラバラに引き裂かれて、奴隷として価値のある健康な者だけが狭い船の中に押し込められ、海を渡って行きました。
「奴隷の家」の海側には有名な「帰らざる扉(Door of No Return)」があります。この扉から奴隷達は船に詰め込まれました。二度と故郷に戻ってくる事はありません。重い鎖に繋がれ身動きの取れない状態にされて、狭い船の中に押し込まれ、見知らぬ土地に送られて行きました。今では多くのアフリカ系アメリカ人が、祖先が通ったであろう、この扉を見学しに訪れています。
私達の英雄、Boubacar Joseph Ndiaye
Boubacar Joseph Ndiaye(ブバカル・ジョゼフ・ンジャイ)というゴレ島の英雄がいます。奴隷の家の元館長で、アフリカ奴隷貿易の歴史を語る上で世界的に有名な方です。
植民地下でフランス軍兵士として世界大戦やベトナム戦争で戦った彼は、フランスで埋もれていたゴレ島の歴史に関わる資料を発見しました。これをきっかけに、「奴隷の家」の負の歴史が語られるようになりました。
これは彼の有名な言葉です。少年時代はよく、「奴隷の家」の窓の下まで行って、彼が、「奴隷の家」の歴史を観光客に語っているのを、耳を傾けて聞いていたものでした。心を打たれる経験でした。彼のパワフルな口調で語られる当時の歴史は、人々を感動させていました。泣く方もいました。
自分の住むゴレ島の歴史を知れば知るほど、多くの人に知ってもらいたいという気持ちが大きくなり、中学生の時、ゴレ島のガイドをしました。ガイドをしても、手に入るお金はわずかです。でも、お金を得るということ以上に、この島で起こった本当の事を、一人でも多くの人に知ってほしいという気持ちで働いていました。
ゴレ島の歴史を語る者として
そんな自分の気持ちは、ガイドをした観光客にちゃんと伝わっていたみたいです。
ある時、ルイ・ヴィトンの高級ブランドで身を纏ったとてもお金持ちそうなフランス人夫婦をガイドしました。私の行ったガイドに対し、とても喜んでくれた夫婦は私に「いくらほしい?」と聞いてきました。当然高い値段も言えましたが、私は「今日私が、ゴレ島についてあなたに伝えたことに対する、あなたの気持ちでいいです」と答えました。渡されたお金は、当時の自分にとっては驚く程の大きな額でした。けれどもその夫婦は、それを渡した後「それで足りる?」と更に聞いてきました。友達からは、もっとお金をもらえればよかったのに、と言われましたが、私には、その夫婦が私の話を丁寧に聞いてくれて、「奴隷の家」で涙を流しながら出てくるのをみて、自分がゴレ島に生きる者として大切な役割を果たしていると実感しただけで、自分の気持ちが満たされたのでした。
その夫婦はその日、ランチを一緒にレストランで食べようとも言ってくれました。島の中で最も高いレストランに誘われた私は、普段家に戻って食事をするという母の言いつけ通り、断りました。しかしその夫婦は何度も誘ってくれたので、急いで家に戻り、母親の許可をもらって、一緒に食べることになりました。食事中、自分の住所を聞かれ、何が欲しいかと聞かれました。私はサッカーシューズが欲しいと答えました。
ペラペラの端切れの紙に自分の住所を書いて渡したのに、この夫婦はそれを大切に持っていてくれたのでした。後日、フェリーで帰ってくる母の荷物を手伝うため、島のフェリー乗り場で母の帰りを待っていたら、郵便のおじさんが「今日は郵便物が君に届いているよ。後で届けるから待っていてね」と言われた時は、あまりに驚いて嬉しく、荷物が家まで届けられるのを、家の玄関でずっと待っていたのを覚えています。PONYブランドのピカピカのサッカーシューズと共に、洋服、勉強道具などが、その夫婦から送られてきました。
その後、その夫婦とは手紙で何度もやり取りをしましたが、数年後のある日、最後の手紙が自分に戻ってきました。その夫婦に何かあったのか、分からないまま時が経ちました。まだ生きているか分かりませんが、会えるなら会いたいと思っています。
数えきれないくらい良い出会いがありました。そういった経験が、ゴレ島民としてより、語り継がなくてはいけないという使命感を強くしたと思います。
観光客がゴレ島に来てくれることは、島民としてとても嬉しく思います。奴隷の家のすぐ近くで生まれ育った私にとっては、奴隷の家も、ゴレ島の歴史も、自分の一部であり、人生の一部であり、そしてまた、自分がゴレ島の歴史の一部でもある、と思っています。
自分達の先祖が苦しんだ過去を想い、それを許し、あらゆる人類の生命が尊重される世界を願うゴレ島は、負の歴史を背負いながらも、平和を希求し前に進み続けるという、大切なメッセージを世界に発信する島となっています。
音楽を通して平和を伝えたい
来日後も私はゴレ島を背負い、音楽活動を行ってきました。ゴレ島を背負って生きるとは、つまり、ゴレの歴史から学んだ「人類全ての生命が尊重される様に」というメッセージを世界に伝え広げる、という事です。
音楽には国境や宗教、人種、言語などの壁はありません。一度音楽を奏でれば、その場にいる人が一つになることができます。
私は、ゴレ島の「あらゆる生命が尊重される様に」というメッセージを伝えるために、音楽が最高の役割を果たしていると強く感じています。そして、自分が音楽を通してメッセンジャーとなり活動していることを誇りに思っています。音楽を通して、人種や文化の違いを超え皆が幸せを感じることが、ゴレ島が望んでいる平和な姿だと信じています。私の音楽には、そのようなメッセージが込められています。
来日してから多くの素晴らしい日本人に出会い、日本文化、歴史、精神を教えてもらいました。私もアフリカの伝統精神や歴史を人に「伝える立場にある」、ということを心に留め、一人でも多くの人にゴレ島のメッセージを広めていけるよう、これからも音楽と共に歩んでいきたいと思っています。